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われ以外…

この言葉は作家の吉川英治氏が晩年好まれた言葉と聞いています。

 住職も近年、布教使として少しづつ他の寺院や別院でお話しする機会が増えてまいりました。そんな折、その寺院の住職や係りの方から「先生」と呼ばれることが多くなりました。はじめはこそばゆい感じがしていましたが、最近は少し慣れてきたのか、特にこそばゆい感じもしなくなってきました。

 吉川英治氏は「親鸞」や「宮本武蔵」などを執筆し、文化勲章をも受賞された方です。そんな方が自分以外を師と仰ぐということは、自分自身がその前に謙虚となり、はからいを持たず、相手を理解することを通して開かれる世界なのでしょう。

 この言葉を通して、私たち、いやこの私に、その心を示唆して頂いたのではないかと味あわさせて頂きます。

 仏法に出遇うということは私自身を鏡で映し出されるということです。煩悩に振り回され、自分中心のものの見方をする自分がそこに映し出されています。しかし、そんな私を決して見捨てない、必ず救い取ると願われ、今まさにはたらいて下さる阿弥陀様の姿や私を仏法に導いて下さり先に仏になられた諸仏方の姿がそこに映し出されています。

 私たちは過去には決して人には言えないような苦しみや悲しみ、黒い部分が存在します。しかし仏法に出会えたのはそのような黒い部分ですらご縁になってくださったと味わえる世界が仏さまの世界です。

 ふと自分自身が慢心していないか、仏法という鏡を通して、またこの度の吉川英治氏の言葉を通して自分自身を見つめてまいりたいと思います。

 これからお盆を迎えるにあたり、この私を仏法に導いてくださる多くのお育てのご縁に感謝させて頂く時間とさせて頂きたいものです。心穏やかにお手合わせさせて頂きましょう。