新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
今年初めの言葉は善導大師(中国)の『観経疏』に記されたお言葉です。
経教とはお経のことで、「お経は鏡のようである。」と記されています。つまり、お経の教えは自分の心を映し出す鏡であると・・・。お経とはお釈迦様が私たちに説いて下さった真実の教え、いうなれば、現代の私たち対してのメッセージです。
皆さんのお宅にも鏡はあるのではないかと思います。また外出前には整ってるかどうかを確かめるために見ることもあるんじゃないでしょうか。自分は絶対大丈夫だから鏡なんか見なくても大丈夫っていう人もいるかもしれません。ただ、この自分は大丈夫と思う心には注意が必要です。
鏡は自分の姿を映し出してくれますが、心の中身や私の本来の有様を映し出すことはできません。
お経という鏡を通して私たちは、本来隠していたい中身であり、本来の有様があぶり出されます。自分が見たり聞いたりしたものは絶対に間違いないという、根拠のない自信で自分は決して間違わない、間違っていないと思って暮らしているのが私たちです。すると一生、相手を責めることで終わってしまいます。自分のことには気がつくことがないのです。ですから、私たちは、他人のことはよく見えるのですが、自分のことはなかなか見えません。だから、私たちには生活の中に教えという「鏡」が必要なのです。
では、その鏡にはなにが映っているのでしょうか?本当の私の姿、と言われてもピンとこないかもしれません。しかしお経という鏡を通しますと、この私の苦しみの原因、私の煩悩がありありと映し出されます。「なぜこんなに苦しいのか、なぜ自分だけこんな思いをしなくてはならないのか」と思うこともあると思います。その原因を他者に向けていると怒りや憎しみが増長して、苦しみばかりが増えていきます。しかしお経を通してこの私を見ますと、そこに私の執着、自己中心的なものの見方をしている自分に気づかされます。しかしそれこそが人間であり、人間の持つ悲しみです。自らその境界を離れることができずに彷徨うこの私を救い取って離さないはたらきに気づかされます。阿弥陀如来という仏さまは、この私に決して真っ当な人間になりなさい、清く正しく生きていきなさいと諭す仏さまではありません。執着から離れることができずに苦しみにあえぐこの私の苦しみに寄り添い「苦しいね、悲しいね、でもこの阿弥陀がいつも一緒にいてるよ、南無阿弥陀仏」と喚びかけてくださっています。そのことに気づかされると、お経という鏡には阿弥陀さまと共に歩むこの私の姿が映っていることに気づかされるのです。善導大師のこの言葉を通してこの私の姿を聞く、そんな1年を過ごしたいものです。